第1章 世界史の針が巻き戻るとき
≪多くの人は、ヨーロッパこそがほかの国を植民地化していると思っています。しかしシステムという意味ではヨーロッパは、アメリカのソフトパワーによって植民地化されています。我々が観るネットフリックスなどは、植民地化された空間です。第二次世界大戦後に我々が目にしているものは、植民地の脈絡です。新しい(アメリカの)植民地が数多くできました。≫p24
アメリカの企業が主導する情報産業によって世界は植民地化されているが、その情報産業自体は見せかけの姿であり、本質は隠されている。
≪一般的に言うと、グローバルな領域で我々が今目の当たりにしているトレンドの多くは、擬態(生物が攻撃や自衛などのために、体の色や形などを、周囲の植物・動物などに似せてカモフラージュすること)の形を持っています。最初に始めたのはアメリカです。18世紀初期頃から、アメリカはヨーロッパのようになっていきました。彼らの言語はヨーロッパ言語の一つである英語であり、建築も、大きさ以外はヨーロッパ的でした。旅行者の目に、アメリカはまるでヨーロッパ・バージョンの外国のように映ったでしょう。もちろん見せかけだけで、実質は違ったのですが。≫p25~26
情報産業だけではなく、国も擬態している。アメリカはヨーロッパを擬態し、中国はアメリカを擬態している。ヨーロッパはヨーロッパを擬態している。ヨーロッパが擬態している本体のヨーロッパは存在しない。「ヨーロッパ新聞」のような媒体が存在しないのは偶然ではない。
≪私が言いたいのは、WASPたちがアメリカ西海岸を表象している、ということです。彼らがアイデアの源泉であるわけではありません。もちろん、いくつかは彼らの発案でしょうが。彼らには構造的なパワーがあるのです。たとえばフェイスブックの創業者であるマーク・ザッカーバーグはハーバード大学出身ですね。強力な構造的パワーです。そのために、一つのアイデアだけで大成功したのですから。しかし、擬態の壁の裏で糸を引く人たちからのインプットがなければ、そのアイデアもまったく実現しなかったでしょう。≫p31
SNSを主導する本体はアメリカ西海岸WASPというイメージが強いが、実際はそうではない。擬態された本体には構造的なパワーがあり、リアリティは隠されている。
≪時計の針が巻き戻り始めた世界において、「新しい実在論」は、新しい解放宣言です。特に我々はソーシャル・メディアから自分自身を解放しなければなりません。ソーシャル・メディアなどは、純然たる擬態です。ソーシャル・メディアは社会であるかのように見えますが、実際は違います。この二十一世紀という時代にリアルなものへ回帰するためには、いろいろな戦略を見つけ出さないといけません。≫p33
インターネットは非民主主義的な環境を提供し、民主主義の土台を揺るがしている。
インターネットには法廷も裁判官も権力の分立もない。
例えば、もし、北朝鮮がフェイスブックに干渉したとすれば、それについて誰も何の対策も講じることはできない。
≪本書では、今我々に起きている危機ー価値の危機、資本主義の危機、民主主義の危機、テクノロジーの危機ーの現状を解説して解決策を探りたいと思っています。そして、ここに挙げた四つの危機は、私が「表象の危機」と呼ぶものに集約することができます。表象の危機とは、ここまで論じた、イメージによって真実が覆い隠されている状況です。≫
本章のまとめと本書の導入部分。
「表象の危機」から脱するためには「新しい実在論」が必要との主張。
第2章 なぜ今、新しい実在論なのか
≪まず、私が提唱する「新しい実在論」(New Realism)について、本書の読者に向けて簡単に説明しましょう。「新しい実在論」は、二つのテーゼが組み合わさってできています。まったく次元が違う二つを組み合わせているため、革新的で哲学界の歴史においては初めて提唱される考え方です。
二つのテーゼとは何か、それぞれ見てみましょう。
一つ目は、「あらゆる物事を包括するような単一の現実は存在しない」という主張です。「世界は存在しない」という有名なスローガンになりました。現実は、いわゆる「意味の場」と呼ばれる場所に現れます。「意味の場」は複数あり、それぞれ領域は違えど、すべてが同等に現実になります。・・・(中略)・・・
第二の主張も、一番目と同じくらい重要です。「私たちは現実をそのまま知ることができる」という考え方です。なぜなら、我々はまさにその現実の一部であるからです。私が自分の精神状態を知ることができるのは、自分がまさにその精神状態そのものだからです。≫p42~44
世界には統一的な現実があるわけではない。意識レベルでも、物質レベルでも複数の現実がそれぞれの「意味の場」に現れる。
また、私が生きる現実はすべて「知ることができるもの」であり、現実について隠されたものはない。
≪「新しい実在論」において重要な概念である「意味の場」について簡単に解説しましょう。「意味の場」とは、特定の解釈をする際、対象をいかにアレンジメント(配列)するかということを意味します。たとえば、我々が今図書館にいるとしましょう。図書館でどうやって本を探すかという視点から、「意味の場」について説明することができます。あなたは本の冊数をどのような方法で数えますか?・・・(中略)・・・
今述べたことを特別にする(本の数え方を「冊数」と決める)ような性質は、我々が置かれている状況(図書館)には備わっていません。本のページ数、文字数、情報の数、本を寄贈した組織数、生産した組織数ー我々が置かれている状況(図書館)では、すべてが真実です。それぞれ異なる測定ルールを使っているだけのことです。この測定ルールを、私は「意味」と呼びます。言語学で言う意味論の「意味」です。≫p49~50
ある状況に対する計測の仕方は複数ある。それぞれ異なる測定ルールに従って投げかけられた問いが「意味」そのものであり、答えがその「場」となる。対象は「意味の場」にあり、「対象の本質が問いへの答え」(p52)である。
別著でマルクス・ガブリエルは「意味」の定義として「意味とは対象が現象する仕方である」と述べている。『なぜ世界は存在しないのか』
≪ということは、まずその数え方を定義しなければならないということです。私はそれを計数ルール(a rule of count)と呼んでいます。すべては「何に関心があるか?」という問いから始まります≫p52
関心の在り方によって、計数ルールは異なる。特定の計数ルールをあてはめ、対象のコンセプトを知ることができるが、特権的、包括的な一連のコンセプトなどというもの存在しない。
決定的な数字(答え)が存在したとしても、現実はそれを超えていき、コンセプトもその数字も絶えず変化し続ける。
≪コンセプトの意味(meaning)、つまり意図(intention)こそが私が意味(sense)と呼んでいるものです。私のいう「意味」に呼応して現実で起こるのが「場」です。「意味の場」の外には何も存在しません。すべてのものは、コンテクスト(文脈)の中で起こります。≫p54
意味は対象に対して適用される測定ルールによって変わるが、その問いはすべてある文脈の中で発生する。
≪大切なのは、誰が正しいのかという問いです。誰が何を言うのかは重要ではありません。重要なのは、彼らが正しいかどうかだけだからです。・・・(中略)・・・
重要なのは、誰が何を言うかではなく、その人がしかるべき理由を持ち、正しくあるかどうかです。≫p59
正しくあるためには、理性をコンセプトにしなければならない。何が真実であるか、人間とは何か、という問いに答えなければならない。
≪モダニティ(近代性)は人類の自滅を引き起こすのです。近代科学ほど人を殺したものはありません。≫p62
自然科学と、自然科学を経済学や技術生産へ応用することが「救済への道」とする考え方はアメリカンイデオロギー的で、今の共産主義と同じように自然主義的。
アメリカと中国は同じイデオロギーを奉じているので対立している。